1968年7月11日、創刊号10万5,000部で出発した業界後発の少年週刊誌。「ベテラン作家を引き抜けない」逆境から、長野規が「アンケート至上主義」「持ち込み」「専属契約」「友情・努力・勝利」の編集メソッドを発明し、1995年新年合併号で653万部のギネス記録を達成した。
1968年7月11日、東京・神保町の集英社本社から、表紙に梅本さちおの『くじら大吾』を据えた『少年ジャンプ』創刊号が発売された。同年8月1日号として印刷された創刊号の発行部数はわずか10万5,000部。当時すでに『週刊少年マガジン』(講談社、1959年創刊、150万部前後)と『週刊少年サンデー』(小学館、1959年創刊、80万部前後)が市場を二分し、さらに『冒険王』『ぼくら』『少年』など月刊誌が群雄割拠していたタイミングで、業界後発の集英社が乗り出した「もう1誌の少年週刊誌」が初代『少年ジャンプ』だった。
創刊号の連載陣は梅本さちお『くじら大吾』、貝塚ひろし『ハード・ロック』、永島慎二『くたばれ!! 涙くん』、本宮ひろし『男一匹ガキ大将』など、ベテランは少なく、新人や中堅作家が中心。最初は月2回(第2・第4木曜日)発売の「隔週刊」というニッチな立ち位置で、価格は90円(同時期の『マガジン』『サンデー』は70円)。創刊から1年3ヶ月後の1969年10月から週刊化に踏み切った。
| 1968年7月(創刊号) | 10万5,000部 |
|---|---|
| 1969年(創刊1年) | 20〜30万部前後(業界4番手) |
| 1971年 | 100万部突破(創刊号の約10倍) |
| 1974年 | 『マガジン』を抜いて少年誌1位に到達 |
| 1995年新年3・4合併号 | 653万部(日本国内における漫画雑誌の歴代最高発行部数記録、ギネス世界記録登録、返品率3%) |
創刊期、長野規が新人主体で雑誌を立ち上げざるを得なかった結果として、「読者が今この瞬間、どの作品を支持しているか」を毎週測定する仕組みが必要になった。それが本誌綴じ込みのハガキを使ったアンケート制度。読者は連載作品全てに点数を付けて返信し、編集部は集計結果に基づいて掲載順位を決定。下位常連作品は10週前後で打ち切り、上位作品は巻頭カラー・センターカラーで遇する。
後にジャンプ流の編集スタイルとして業界標準化し、多くのマンガ雑誌・Web漫画プラットフォーム(『ジャンプ+』『マンガワン』『LINEマンガ』『ピッコマ』)でも、リアルタイム読者反応に基づく作品評価が共通の運用ルールとなった。
創刊期、長野は「他誌に行かないでほしい」という願いを契約に落とし込んだ。本誌でデビューした新人漫画家は集英社と専属契約を結び、契約期間中は他出版社での連載・執筆を行えない代わりに、原稿料に加えて月額の「専属契約料」が支払われる。この専属契約制度は他社にも波及し、講談社(マガジン)・小学館(サンデー)も類似のスキームを採用。日本のマンガ業界の「囲い込み構造」の起源はジャンプ創刊期にある。一方で2010年代以降、Web連載・SNS発の作家が増加し、出版社専属モデルは緩和の方向にある(漫画家エージェント企業「コルク」「ナンバーナイン」等の台頭)。
1971年頃、長野規が新人作家向けに「ジャンプ三原則」として提示した「友情・努力・勝利」のキーワードは、後のジャンプ作品の根本コンセプトとして言語化された。読者アンケートで小学校〜中学校の男子読者にアンケートを取った結果、「最も大切なものは?」という設問に対する回答上位3つが「友情」「努力」「勝利」だったというマーケティングリサーチに基づく方針。
この3原則は『キン肉マン』『キャプテン翼』『DRAGON BALL』『SLAM DUNK』『るろうに剣心』『ONE PIECE』『NARUTO』『鬼滅の刃』『呪術廻戦』に至るまで、ジャンプ作品の基本骨格として継承された。世界中のマンガ・アニメ批評で「Shonen genre」と呼ばれる類型の中核。
創刊期、人気作家を引き抜けない集英社は「持ち込み」を新人作家の主入口に据えた。地方在住の若者・大学生が原稿を持参して編集部を訪れ、編集者が直接アドバイスする仕組み。鳥山明(愛知県在住、21歳のときに『ワンダーアイランド』を持ち込み)、井上雄彦(熊本県在住、大学生時代に『楓パープル』を持ち込み)、岸本斉史(岡山県在住、芸大生時代に『カラクリ』を持ち込み)など、後の超ヒット作家のほぼ全員がこのルートで発掘された。
創刊1年目(1968〜1969)は、期待を大きく下回る20〜30万部で推移し、社内では「3年で黒字化できなければ撤退」という議論があった。長野規が経営陣に対して「3年待ってほしい」と請願し続けた逸話が残っている。
1968年創刊号から永井豪の『ハレンチ学園』が連載開始。教師と女生徒のスカートめくり等の表現が話題となりベストセラーになる一方、PTAや教育委員会から猛烈な抗議が相次ぎ、地方議会での雑誌規制議論が起きた。1972年8月には三重県松阪市で「『少年ジャンプ』を市内書店から撤去すべし」という陳情が議会で可決。集英社は連載打ち切りで対応せず、永井豪自身が結末を「ハレンチ大戦争」というディストピア的展開で締めくくり沈静化。
1995年に653万部のピークを迎えたが、1995年に『DRAGON BALL』、1996年に『SLAM DUNK』、1997年に『幽☆遊☆白書』『るろうに剣心』が相次いで終了し、わずか2年で発行部数が500万部以下に落ち込んだ。1997年には『マガジン』に部数で抜かれ、業界1位の座を失った(マガジン415万部 vs ジャンプ405万部)。
出典: 週刊少年ジャンプの発行部数(最高653万部) / マグミクス「ジャンプは本当にアンケート至上主義なのか?」 / ロケットニュース24「1995年新年3・4合併号 最大発行部数653万部」 / 婦人公論「ジャンプ元編集長・鳥嶋和彦インタビュー」 / 文春オンライン「サンデー編集者から格下扱いされていたジャンプ」 / sabukaru「Shonen Jump - the Magazine that Shaped the World of Manga」